建学の精神
社会に貢献できる人間の育成
昭和は世界恐慌のあおりを受けた厳しい経済状況と、軍部が力を強めていく不穏な空気の中に幕を開けました。
本校創立者である青田瀧藏はこの昭和初期の経済界の第一線で活躍した経験から、将来の日本にとって婦女子の活躍が大きな力となることを予見しました。
そこで女子の商業教育の充実を目指して、東京における私立学校の女子高等教育の先駆けとして、1938年に私財を投じ「青蘭学院」を品川区の現在の地に創立したのです。
この年は日中戦争が始まった翌年であり、青田瀧藏が後に「太平洋戦争に突入し、生徒も半減。
終戦になっても物資の窮迫、進駐軍の制圧などでいばらの幾山川を越えてきたが…」と回想している様に厳しい出発でした。
しかし、太平洋戦争の敗戦を通して「これからの日本を背負っていくのは若い人達であり、その若い人達に実際に即した教育を施すことが日本の発展にとって大きな力となる。」という国を思う心と教育への情熱はいよいよ深まりました。
こうした背景の中「社会に貢献できる人間の育成」という本校の建学の精神は生まれました。
理事長
理事長 前田 和世
1949年生 学習院大学文学部哲学科 卒業
沿革
昭和13年 | 創立者青田瀧藏 青稜中学校・高等学校の母体である青蘭商業女学校を東京市荏原区下神明町(現 品川区二葉町)に創設。 青田瀧藏初代校長に就任。 |
昭和18年 | 文部省認可により、財団法人青蘭高等女学校として発足。 設立者青田瀧藏 財団法人理事長に就任。校長兼務。 |
昭和22年 | 学制改革により、学校法人青蘭学院中学校・高等学校に改称し、中学校開校。 同時に高等学校に普通科と商業科を開設。 作詞 青田瀧藏 作曲 小林八重子による校歌制定。 |
昭和24年 | 勤労者の為に青蘭学院高等学校に定時制を設置。 |
昭和28年 | 青田瀧藏校長職を辞し、理事長職に専念。青田幸夫第2代校長に就任。 |
昭和41年 | 校外施設「山中高原寮」を山梨県都留郡忍野村忍草に開設。 |
昭和42年 | 青蘭学院中学校休校。 |
昭和46年 | 創立者青田瀧藏永眠。青田房子理事長就任。青田秀子校主となる。 |
昭和53年 | 青蘭学院高等学校定時制課程休校。 |
昭和56年 | 英国短期留学発足。(イギリス南部ラムスゲートにてホームステイ 62年よりソーストンにて実施。) |
昭和60年 | ワープロ教室設置。検定試験の実験模擬校に指定される。 |
昭和63年 | 創立50周年記念式典を挙行。 |
平成元年 | 青田幸夫校長永眠。吉田盛次、第3代校長に就任。 |
平成3年 | 山岡喜久男、第4代校長に就任。 |
平成4年 | 青蘭学院中学校を再開。 |
平成5年 | 青蘭学院高等学校の普通科に特別進学コースを設置。 |
平成6年 | 青蘭学院高等学校の商業科募集停止。普通科のみの学校に移行。 東京都、本校を環境学習推進校に指定。 永井好弘、第5代校長に就任。 |
平成7年 | 青田幸夫メモリアルホール完成。校名を青稜中学校・青稜高等学校に変更。中学校を男女共学とする。 山梨県忍野村「山中高原寮」を売却し、長野県八ヶ岳山麓に校外施設「青蘭寮」建設。 |
平成9年 | 青稜高等学校特別進学コースを男女共学とする。 小林實、第6代校長に就任。 |
平成10年 | 青田秀子校主永眠。 |
平成11年 | 創立記念日を11月17日に制定。 |
平成12年 | 学院の墓碑建立。除幕式挙行。 |
平成15年 | 青蘭寮男子棟完成。 |
平成16年 | 吉村睦人、第7代校長に就任。 |
平成18年 | 青田泰明理事長補佐に就任。 |
平成19年 | 前田和世理事長代行に就任。 |
平成21年 | 青田房子理事長,学院長に就任。 前田和世理事長代行、理事長に就任。 青田泰明理事長補佐、理事長代行・校長補佐に就任。 下山晃、第8代校長に就任。 |
平成23年 | 青田房子学院長、理事に就任。 青田泰明理事長代行・校長補佐,法人局長・校長補佐に就任。 新校舎建築工事着工。 |
平成25年 | 新校舎のうち南棟(仮称)完成。 青田房子理事,理事長に就任。 前田和世理事長,常任理事・理事長代行に就任。 小林汎、第9代校長に就任。 |
平成26年 | 平野 敏政、第10代校長に就任。 |
令和2年 | 青田房子理事長、学院長に就任。 前田和世理事長代行、理事長に就任。 青田泰明校長代行、第11代校長に就任。 |